オルジェイトゥ
| オルジェイトゥ اولجايتو خان | |
|---|---|
| イルハン朝第8代イルハン | |
|
ガザンとオルジェイトゥ(『集史』) | |
| 在位 | 1304年7月21日 - 1316年12月16日 |
| 別号 | スルターン・ウールジャーイトゥ、ウールジャーイトゥ・ムハンマド・フダーバンダ |
| 出生 |
1280年 |
| 死去 |
1316年12月16日 |
| 配偶者 | ハーッジー・ハトゥン |
| デスピナ・ハトゥン(アンドロニコス2世パレオロゴスの娘) | |
| ソユルガトミシュ(大ハサンの姉妹)他 | |
| 子女 |
アブー・サイード サティ・ベク |
| 王朝 | イルハン朝 |
| 父親 | アルグン |
| 母親 | ウルク・ハトゥン |

オルジェイトゥ(ペルシア語:اولجايتو خان Öljeitü, Ūljāytū khān, 1280年 - 1316年12月16日)は、イルハン朝の第8代君主(在位:1304年7月21日 - 1316年12月16日)。第4代君主アルグン・ハンの第3子で、第7代君主ガザン・ハンの弟、第9代君主アブー・サイードの父。兄ガザン・ハンの目指したイラン・イスラーム的なモンゴル国家像によるイルハン朝再建の政策を引継ぎ、国内の財政と軍政、宗教問題などの安定化、モンゴル帝国諸王家との融和政策にも取り組んだ。その過程でシーア派改宗宣言をしたことでも知られる。なお、日本語表記では、ペルシア語風のウールジャーイトゥー(Ūljāytū)[1]と表記されるものもある。
名前
[編集]出生時はオルジェイ・ブカ(Ūljāy-būqā[2])であり、しばらくたってから、テムダル(テムデル Tamūdār[2])と称した[3]。幼少期にはキリスト教の洗礼名ニコラスも持った[4]。 後にイスラーム教に改宗するとハルバンダ(Qarbanda)と改名した[注釈 1][2]。 即位後はモンゴル語で「幸運な」「祝福された」という意味のオルジェイトゥ(Öljaitü)、ペルシア語のウールジャーイトゥ・スルターン(Ūljāytū Sulṭān)と称し、公文書ではウールジャーイトゥ・ムハンマド・フダーバンダ(Ūljāytū Muḥammad Khudābanda)と表記した[注釈 2][2]。
生涯
[編集]生い立ち
[編集]オルジェイトゥはアルグン・ハンの三男で、ウルク・ハトゥン[注釈 3]との子である[3]。ウルク・ハトゥンが砂漠の真ん中で陣痛に見舞われ、ハトゥンの行者たちはすべての水をウルク・ハトゥンに与えることに不安を抱いたが、新生児が生まれるやいなや大雨が降り、ことなきをえた[3]。この新生児にはオルジェイ・ブカと名付け、しばらくたってからモンゴルの邪視を避ける慣習によりテムデルと改名した[3]。
幼年時代にはシャーディー・クルゲンの娘クンジュスカト(ゴンチェシケブ)を娶り、一緒に育てられた[4]。母ウルク・ハトゥンはテムデルをキリスト教に改宗させ、洗礼名ニコラスを名付けた[4]。ウルク・ハトゥンの死後はクンジュスカトの勧めでイスラーム教に改宗し、ハルバンダ(Qarbanda)と改名した[4]。
ホラーサーン総督時代
[編集]1295年、兄のガザン・ハンが第7代イルハンに即位すると、ハルバンダはホラーサーン方面全域の統括を任された。ほどなくしてチャガタイ・ウルスのドゥアとカイドゥの子サルバンがホラーサーンとマーザンダラーン地方に侵入してきたため、イシムトの子スケイとバルライ、アルスラーン、ノウルーズがこれに対応した[5][6]。しかし、ガザンのイスラム教改宗に反対していたスケイとバルライはガザンの廃位とノウルーズ殺害を企てた。事前に察知したノウルーズは逆にスケイとバルライを殺害した[7]。王侯アルスラーンも謀反を起こしたため、ガザン・ハンによって処刑された[8]。反乱が起きたものの、ノウルーズが進軍すると、ドゥアとサルバンらはマー・ワラー・アンナフルに帰っていった[9]。
ガザン・ハンの駐在地において、ガイハトゥの長子の王侯アラーフランクを奉じて謀反しようとしていた者が捕らえられた[10]。この者の証言によるとタブリーズに住むシャイフ・ピール・ヤクーブという者が「アラーフランクが王位に就くであろう」という啓示を天から受けたという[10]。ガザン・ハンはピール・ヤクーブ、その他のシャイフ、元朝の使者ナースィル・ウッディーンらを逮捕し、これらの首謀者がサドルッディーン・ザンジャーニーであると見抜き、彼らがマズダクの教義[注釈 4]を信奉していたので処刑したが、アラーフランクだけは助命され、ハルバンダの所領へ送られた[11]。
即位
[編集]かねてより体調がすぐれなかったガザン・ハンは1304年4月に病気になり、5月に死期を悟って遺言をおこない、4年前に後継者に指名したハルバンダにイルハン位を継承、まもなくして崩御した[12]。享年33歳であった[12]。ガザンが没した時、ハルバンダは任地ホラーサーンでその訃報に接したが、将軍のムライからはこのことを隠し、ハン位を狙うアラーフランクと将軍ホルクダクの動きに警戒するよう勧められた[13]。ハルバンダはガザンの喪を公表する前に自分に反対する者を殺害することを決め、エセン・ブカ、グルジ、カルトカ・ブカの3名にアラーフランクとホルクダクを殺害させた[14]。7月11日、ハルバンダはタブリーズ近郊のウージャーンに到着すると、イスラム教国君主崩御の慣例の喪礼の挙行を済ませ、数日間将校、兵士および人民に喪食を配らせた[3]。そしてハトゥンたち、親族の諸王侯、アミール、ワズィールたちの満場一致でイルハンに推戴された[3]。ハルバンダは占星術師の指示した7月21日に玉座につき、スルターン・ウールジャーイトゥ(幸運なスルターン)と号した[3](以降はオルジェイトゥと表記する)。
オルジェイトゥの初政
[編集]オルジェイトゥは基本的に兄ガザンの政策をそのまま引き継いだ。すなわち政務ではガザンの下したヤサを規範とし、あわせてイスラームの戒律を遵守するように命じた[15]。また軍事の管轄は将軍のクトルグ・シャーとスルドス部族の当主チョバンらに任せた[15]。財政は引き続きワズィールのラシードゥッディーン、サアドゥッディーン・サーヴァジーらに委ね、ワクフ監督総監としてクトルグ・カヤとバハー・ウッディーン・ヤークーブをあて、両人に対してこれらの寄進地の収入は贈与者の意志に応じて使用すべきものであること、両人はその前任者がやっていたように宗教法を無視してその額の10分の1をそこから天引きすることを差し控えることを文書で約束するよう厳命した[15]。すべての軍政官、知事はその職を追認され、大々的恩賜によって国庫を使い果たした[15]。8月、オルジェイトゥはウージャーンを出発し、タブリーズへ赴いて兄ガザンの墓参りをした[15]。9月、マラーガ付近で元朝皇帝テムル・カアンの使節団、カイドゥの跡を継いだチャパル、チャガタイ家の当主ドゥアからの使節の謁見を受け、モンゴル帝国で40年続いた内乱(クビライ対カイドゥの戦争)の終了報告と友好関係の保証をおこなった[16]。数日後、マラーガ天文台の長官にナスィールッディーン・トゥースィーの息子ホージャ・アスィールッディーンを着任させた[16]。12月、ジョチ・ウルスのトクタ・ハンの使節団と謁見[16]。
1305年1月、マムルーク朝へ使節を派遣し、ガザン時代に抑留していたスルターン・ナースィルの使節団を帰国させた。この時の国書にはオルジェイトゥの即位の報告と友好関係強化の意向の保証が含まれていた[16]。
2人と結婚
[編集]3月、オルジェイトゥはイリンジンの娘クトルグシャー・ハトゥンと結婚し、プーラード・チンサン、ラシードゥッディーンによって調印された[17]。クトルグシャー・ハトゥンはバフタク(頭冠)をかぶり、ドグズ・ハトゥンの大オルドに住んだ[16]。6月には、ホラーサーンのブルガン・ハトゥンとも結婚し、賜物として絹90マンを贈った[16]。
キルマーン・カラヒタイ朝の滅亡
[編集]1305年、イルハン朝の属国であるキルマーン・カラヒタイ朝の第9代スルターン、シャー・ジャハーン[注釈 5]がガザン・ハンの死去に乗じて反乱を起こし、政庁の諸税を奪い、徴税官や役人らを投獄したため、捕らえられて宮廷に連行された[18]。オルジェイトゥはシャー・ジャハーンがまだ幼かったため、死罪にせず、キルマーン・カラヒタイ朝を解体し、イルハン朝のディーワーンの管轄下におかれた[18][19]。
新都スルターニーヤの建設
[編集]1305年7月、オルジェイトゥは父アルグン・ハンの計画を引き継ぎ、コンクル・ウラング平原に新都城の建設を始めた[19]。完成の後、この都城はスルターニーヤ(Sultāniyya سلطانیه)と名付けられた[19]。この都市には数か所のイスラム寺院があり、その最も大きなものはスルターンの費用で建てられたもので、大理石と染絵の陶磁器で華やかに飾られていた[19]。オルジェイトゥは薬房と必要なすべての家具を備えた病院を建て、数人の医師をここに配置して世話をさせ、さらにバグダードのムスタンスィル学院を模した学院を建てた[19]。貴族たちは競って豪壮な邸宅を建て、ラシードゥッディーンも一区画をまるまる建設し、1000軒の住宅、2つのミナレットのついた大きな建造物、学院、医院、修道院を建てた。王宮は1つの高楼と1つの大法官廷とその他いくつかの建物からなっていた[20]。高楼はある間隔に12か所の小殿で囲まれていて、各殿は大理石を敷いた中庭に向かって1つの窓を設けていた[20]。大法官廷は2000人を収容する広さであった[20]。オルジェイトゥは在位中、毎年維持費として50トゥメンを割り当てた[20]。
『集史』の完成
[編集]1307年4月、ワズィールのラシードゥッディーンは先代ガザン・ハンから編纂を命じられていた『モンゴル史(ガザンの祝福された歴史)』を完成させ、オルジェイトゥに献呈した[21]。オルジェイトゥはなおモンゴル帝国全土が久方ぶりに和平したことを祝して、さらにガザンによって定められた『モンゴル史』のみならず、「諸国史」、「諸民族系譜図」をそれぞれ追加するように命じ、1314年に増補版『集史(ジャーミ・ウッタワーリーフ Jāmi` al-Tavārīk)』として脱稿した。
ギーラーンの征服
[編集]スルターニーヤの北、カスピ海の南岸地帯には12人の小王侯からなるギーラーンの諸侯国があったが、イルハン朝は長らく征服できずにいた[22]。1306年12月にアルダイ・ガザン[注釈 6]がチャガタイ・ウルスのドゥア・ハン死去の報告をしてきた際、「ドゥアとその将校たちがペルシアの君主はその王国内の小さなギーラーン国すら征服できないと嘲笑していた」と言ったため、癇に障ったオルジェイトゥはギーラーン征服を決意した[22]。この遠征では将軍のチョバン、クトルグ・シャー、トガン、ムーミン、そしてオルジェイトゥ自らが進軍し、グルジア人、アルメニア人、クルド人、ホラーサーンの各部隊も従軍した[22]。チョバンはアルダビール路より侵攻し、ほとんど抵抗されることなく降伏させ、2人の王侯を捕らえた[23]。クトルグ・シャーはハルハール経由で侵攻し、身勝手な戦略で苦戦に苦戦を重ねて戦死した[24]。トガンとムーミンはガズヴィーン経由で侵攻し、王侯ヒンドゥークーシュの降伏を受け入れた[25]。1307年5月、オルジェイトゥはダイラム地方を征服後、6月ノウ・パーディシャーを降伏させ、次いで王侯ソルクの降伏を受け入れた[26]。オルジェイトゥはクトルグ・シャーの戦死を聞き、トゥメン、ラシュト、トゥーリム地区の征服にとりかかった[27]。この地区の抵抗は激しく、モンゴル部隊、クルド部隊、ホラーサーン部隊は苦戦し、アミール・フセイン、アミール・セヴィンジらの活躍により、なんとか占領でき、この地域の住民はことごとく掠奪・虐殺された[28]。オルジェイトゥは残る王侯アミーラ・ムハンマドを降伏させるとギーラーン諸侯国の征服を完了させた[29]。
クルト朝のヘラート王を征討
[編集]前年(1306年)の9月、オルジェイトゥは自分に与しないクルト朝ヘラート王国の王(マリク)ファフルッディーンを征討するため、将軍ダーニシュマンド・バハードルを派遣した[30]。ダーニシュマンドはヘラートに到着するとファフルッディーンに事前通告をしたが、ファフルッディーンが応じなかったためホラーサーンの大藩候(ファラー、ダラーイ、イスフィザール、トレク、アーザブ)らを招集し、ヘラート城を包囲した[31]。するとファフルッディーンが攻勢にでてモンゴル軍を急襲して多数の戦死者をだしたため、ダーニシュマンドはファフルッディーンに和平交渉をおこなった[32]。ファフルッディーンが降伏を申し出たため、ダーニシュマンドらはヘラート城に入城したが、そこでヘラートの将軍ジャマールッディーン・ムハンマド・サームによって殺害された[33]。これを知ったオルジェイトゥは将軍ヤサウルを総司令官としてヘラートに派遣し、ダーニシュマンドの子アミール・ブジャイとタガイも随行させた[34]。
1307年2月、ブジャイがヘラートに到着すると、ファフルッディーンに書簡を送り、父殺しの件を詰問した[35]。3月、モンゴル軍の攻撃が始まると、両軍は激しく戦ったが、ちょうどファフルッディーンが死去した[36]。しかしブジャイはそれを疑い、離間の計を謀ったが失敗に終わった[37]。そうしてる間にヘラート城の兵糧がつきてきたため、内部からも降伏の懇願があったが、ムハンマド・サームは固辞した[38]。6月、しびれをきたしたムハンマド・サームは捕虜だったマリク・クットブッディーン・トレクを釈放して開城降伏を申し出たため、ブジャイの弟トガンと会見し、開城することとなった[39]。捕らえられたムハンマド・サームはヤサウルによって処刑された[40]。7月、ギーラーン遠征から戻ったオルジェイトゥはファフルッディーンの弟であるギヤースッディーンを次のヘラート王に封じた[41]。
偽マフディー事件
[編集]1307年9月、ムーサというクルド人がマフディーを自称し、多数のクルド人をとりこんで反乱を企てた[42]。しかしすぐさまモンゴル当局に捕まり、それらの首級がオルジェイトゥのもとに送られた[42]。
キリキア・アルメニア王国の事件
[編集]1308年、イルハン朝の属国キリキア・アルメニア王国の守将ビラルグがキリキア・アルメニア王レヴォン4世を殺害したため、オルジェイトゥはビラルグを処刑し、レヴォン4世の叔父であるオーシンを次のキリキア・アルメニア王とした[43]。
デスピナ・ハトゥンとの結婚
[編集]のちにオスマン帝国を創始するオスマン一味のトルクメン人の侵入に悩まされていたビザンツ帝国(パレオロゴス王朝)の皇帝アンドロニコス2世パレオロゴスは、隣国イルハン朝と同盟を結んでこれに対抗するため、娘のマリアをオルジェイトゥに嫁がせた[44]。マリア妃は小デスピナ・ハトゥンとよばれ、アバカ・ハンの妃、大デスピナ・ハトゥンの持っていたユルトを受け継いだ[44]。
シーア派を信奉する
[編集]オルジェイトゥがホラーサーン時代から信奉しているハナフィー派を即位した後も優遇したため、ハナフィー派は傲慢な態度をとるようになり、シャーフィー派を信奉するラシードゥッディーンらの憎悪を招いた[45]。一方でオルジェイトゥはシャーフィー派の権威でマラーガのニザームッディーン・アブドゥル・マリクを大法官に取り立て、ハナフィー派のすべての法官の上位に置いた[45]。オルジェイトゥはニザームッディーン・アブドゥル・マリクがハナフィー派を論破するのを喜び、次第にシャーフィー派を信用するようになった[45]。これに対抗すべくハナフィー派のサドル・ジハーンの子が「姦通によって生まれた婦人との結婚の合法性」について論争をおこなった[46]。これにオルジェイトゥらモンゴル人は不快に感じ、イスラーム教を捨ててラマ教に戻ることを勧める者もいたが、オルジェイトゥは決心がつかなかった[47]。そのとき、アミール・タラムタズが「先代ガザン・ハンはシーア派を信奉していたのだからそれに倣うべき」と進言したため、オルジェイトゥは心を動かされた[48]。
1310年、オルジェイトゥはアリーの墳墓を詣で、彼がかつてこの地で見た夢に従ってシーア派の教義を信奉することに決めた[48]。オルジェイトゥは周りの者にもそうするように命じたが、チョバンとエセン・クトルグは従わなかった[48]。オルジェイトゥはそれまでのスンニ派の方式からシーア派の方式に変え、貨幣の形も変えた[49]。
サアドゥッディーン・サーヴァジーの失脚と処刑
[編集]オルジェイトゥはかつてワズィールのサアドゥッディーンに諸州の収入に対して割付証書を発行することおよび年金と報酬を支払うことを禁止した[50]。オルジェイトゥはサアドゥッディーンが徴収した資金を自分に手渡すように要求したが、入手できなかったため怒った[50]。このころ、サアドゥッディーンは使用人の数を増やしており、彼への請願書を提出する場合は35人の役人を通さねばならず、かつ賄賂を贈らねばならなかった[50]。そのためこれらの役人のために国家の歳入を使い込み、その額は3千ドラクマにも達していた[50]。
1312年、あるとき、両ワズィールの使用人が互いに国庫を食い物にしていると罵り合っていた[50]。これを見たサアドゥッディーンは二人に口止めし、スルターン(オルジェイトゥ)の歳入に関するどんな小さいことでも、これ以上口にしないことを誓わせた[50]。このことを聞いたラシードゥッディーンはすぐにオルジェイトゥに報告し、サアドゥッディーンが国庫の着服をしていることを告発した[51]。2月19日、オルジェイトゥはサアドゥッディーンを逮捕すると彼の使用人の罪状を調査するよう命じ、使用人の5名を死刑に処すとともにサアドゥッディーンをも処刑した[51]。彼らの財産はすべて没収され、属吏と手先は拷問を受けた結果、莫大な金額を奪い取られた[51]。
マムルーク朝との戦争
[編集]1312年10月、オルジェイトゥはシリア遠征を開始し、12月、ラフバトを2か月包囲したところで猛暑と食糧不足に遭い、撤退を余儀なくされた[53]。2月、進軍中だったマムルーク朝のナースィル・ムハンマドはそれを聞いて軍を解散した[53]。
チャガタイ・ウルスとの戦争
[編集]1313年9月、オルジェイトゥはチャガタイ・ウルスのエセン・ブカ・ハンの使節と接見した[54]。
クトルグ・ホージャ[注釈 7]の子ダウード・ホージャが父の采󠄁邑であるジャイフーン川以南の地を継承すると、その従兄弟であるティムール・クルカーン(テムル・クルゲン)はオルジェイトゥに進言し、ダウード・ホージャをジャイフーン川以北へ放逐出来たら、以南の領地とともに帰順することを提案したので、オルジェイトゥはそれを了承し、王侯ミンガンのホラーサーン軍をつけてやった[55]。ダウード・ホージャはあまりにも弱く、ジャイフーン川の渡河で3千人の士卒を溺死させながら北へ逃げていった[56]。これによりティムール・クルカーンはオルジェイトゥに臣従した[56]。
ダウード・ホージャは主君であるエセン・ブカ・ハンに援助を乞うた[56]。折しもエセン・ブカは元朝のトガチ・チンサンとの戦いに敗れたばかりだったので、その埋め合わせをするため、ホラーサーン侵攻を了承した[56]。
1315年、エセン・ブカの弟ケベク、ダウード・ホージャ、ウズベク・ティムールの子ヤサヴルらで構成されたチャガタイ・ウルス軍はジャイフーン川を渡り、バードギース地方のムルガーブの付近でイルハン朝のホラーサーン司令アミール・ヤサウルに対して勝利した[56]。この戦いでダーニシュマンドの子ブジャイは陣没した[56]。チャガタイ・ウルス軍はヘラート付近まで攻め入り、4か月間ホラーサーンを占拠した[57]。時にチャガタイ・ウルス本国では元朝軍の侵攻に遭い、タラスとイシク・クルまで占領されていたので、ホラーサーンからの帰還命令が出された[57]。この時ケベクとウズベク・ティムールの子ヤサヴルの間でいざこざがあり、ティムールの子ヤサヴルはオルジェイトゥの子でまだ11歳のホラーサーン総督アブー・サイードに帰順を申し出た[57]。アブー・サイードはまだ判断がつかなかったので父オルジェイトゥに判断を仰いだ[58]。
1316年9月、オルジェイトゥはヤサヴルに全面的に協力し、クルミシュ、トガイ・クルカーンのイラーク軍とバフラム・シャー、ベクトゥトらのホラーサーン軍をつけてジャイフーン川を渡り、チャガタイ・ウルス軍を駆逐しておびただしい戦利品を獲得した[58]。オルジェイトゥはヤザヴルに御衣一襲、宝石をちりばめた帯、王帳、ティンバル、纛を贈り、采邑としてバダクシャン山地とカンダハール山地の間、バルフとカブールの間の地方を与えた[59]。
ウズベク・ハンの抗議
[編集]1315年にジョチ家の王族でイルハン朝に帰順していたバーバがジョチ・ウルスの領土であったホラズム地方を侵犯し、守将のクトルグ・ティムールを破って5万人の捕虜と莫大な戦利品を携えて返ろうとしたときに、王侯ヤサヴルによって襲撃されたため、捕虜を捨てて帰還した[60]。これに関し、ジョチ・ウルスのウズベク・ハンはオルジェイトゥの宮廷に使節を派遣し、自国領への侵略行為を抗議した[60]。さらにチャガタイ・ウルスのエセン・ブカ・ハンがこれに乗じてウズベク・ハンに徴発してきたため、憤慨したウズベク・ハンは9月にキヤト氏のアクブカという者をタブリーズに派遣し、バーバの引き渡しを要求した[61]。これに対しオルジェイトゥは「今回の件はバーバの独断で許可したものではない」とし、バーバ親子を処刑した[61]。
マムルーク朝のマラティア侵攻
[編集]1315年4月、ダマスクスの長官サイフッディーン・タンカル指揮下のマムルーク朝軍はアインターブを経由してキリキアに侵入し、マラティヤへ進撃した[62]。ウデクティムールは先鋒を率いてこの城を包囲して3日経つと、タンカルが大軍を率いてこの地に到着し、幕営においてマラティアの長官とカーディーが開城降伏を申し入れてきたのを許した[62]。しかし、そうしている間にウデクティムールは自分の陣地の前の城の一部を力づくで占領した[62]。将軍タンカルがウデクティムールに対して開城降伏した城を掠奪させないように命ずると、ウデクティムールは従わず部下の軍隊に略奪を許可した[62]。ウデクティムールの軍隊はキリスト教住民を虐殺・捕虜にし、都城に火を放った[62]。しばらくしてのち、オルジェイトゥからマラティヤを封地として受けたチョバンが到着し、守備隊を置いてマラティヤの再建を命じた[62]。こののちもマラティヤのみならず、キリキアにマムルーク朝軍は侵入を繰り返した[62]。
イッズッディーン・フマイザの亡命
[編集]1316年、メッカの統治者で聖裔家の出身であるイッズッディーン・フマイザが、彼の弟アサドゥッディーン・リマイサを後援するマムルーク朝のスルターン・ナースィルによってメッカを逐われてイルハン朝に亡命して来た[63]。フマイザは後にメッカに帰還すると、オルジェイトゥの後を継いだアブー・サイードの名前でフトバを唱えさせている[64]。
オルジェイトゥの崩御
[編集]オルジェイトゥは1316年の末にスルターニーヤで痛風の病に襲われた[65]。オルジェイトゥは厳しい食餌療法の甲斐があって回復傾向にあったが、長時間の入浴の後、不消化の肉を食べたところ、病状が悪化した[65]。多くの医師は軽い下瀉剤を用いようとしたが、医師の一人に頑固な老人がいてこれに反対し、大量の強壮剤を服用させた[65]。その結果オルジェイトゥは1316年12月16日、36歳で崩御した[65]。オルジェイトゥの棺は純金、純銀製で、宝石を飾り、玉座の上に据えられ、宮廷と軍の諸官はこれに対して悲哀の泣き声をあげて喪礼をおこなった[65]。臣民は1週間の服喪し、深藍色の服を着て地に座り、ミナレットと寺院の講座は粗毛布を蔽われた[66]。
オルジェイトゥがフランス王に送った書簡
[編集]パリの王立図書館にフランスのフィリップ美王に宛てたオルジェイトゥの書簡一通が保存されており、それはウイグル文字モンゴル語で書かれている[66]。以下はその訳文[66]。
ウールジャーイトゥ・スルターン、われらの言葉。フランク王スルターンへ。
古よりなんじらすべてフランク人のスルターンらは、われらの良き曾祖父、良き祖父、良き父、良き兄に親交を結びて、遠くにあるも近きがごとく思い、おのれのいかなる言葉をも伝え、おのれの使者を、おのれの問安の贈り物を送りしことを何ぞ忘れんや、なんじ。いまや天の力によりて、われらは大位に即きたるがゆえに、先祖、良き祖父、良き父、良き兄の勅諭、掟に背かず、完備せる規則、昔の善人と話し合えしことを棄てず、誓いの如く思いて、従前のごとく、きわめて睦み合いて、その使者を送らんと思いてあるなり、しかして、われら兄弟たちは悪しき輩の奸言のため、心背き合いたり。天に情を施され、テムル・カガン、トクトガ、チャパル、ドガをはじめ、われらチンギス・カガンの一族の4、5年このかた、そしりあえるを、いまや、旭日昇るナンキャス(中国)の地より占め、ダルー海(カスピ海)にいたるまで、国を統べてわがジャムチをば結ばしめたり、われらのなかにだれか異心あれば、かれらのうえにもろともに襲いてあらむとぞ語らい合いたり。いまや、われらの良き祖父、良き父、良き兄に和み合いたる貴王の道理をいかんぞ棄てんと言いて、これらママラク、トマン二人を遣わしたり。なんじの多くのフランクのスルターンたちはすべて睦み合いてありとしらされたり。まことに、睦み合わざるものあらば、天の力によりて、かれらの上にもろとも襲わんことを天しろしめせ。われらの書簡は704年に巳の年夏の始月の8日旧(1305年5月13または14日)に、アリーヴァーンにいるとき記せり。 — オルジェイトゥの書簡
この書簡の原文は500年間保存されていた文書庫からアベル・レミュザによって発見され、レミュザはこれを影印し、自身の著『Mémorie sur les relat. dipl. des princes chrétien avec les rois de Perse de race de Tchinguiz-khan』の巻末に掲載された[69]。
妻子
[編集]妻(ハトゥン Khātūn)
[編集]- ゴンチェシケブ(Gūnjishqāf)…第1ハトゥン。シャーディー・クルゲン[注釈 8]の娘。
- ボジュゲン(Būjghān)…第2ハトゥン。レクズィー・クルゲン[注釈 9]の娘。
- オルトズミシュ(Ūltūzmīsh)…第3ハトゥン。クトルグテムル・クルゲンの娘。
- チャチ・ハトゥン(Jājī Khātūn)…第4ハトゥン。チェチェク[注釈 10]の娘。
- アーディルシャー(`Ādil-shāh)…第5ハトゥン。サルタク[注釈 11]の娘。
- オルジャタイ(Ūljātāy)…第6ハトゥン。チャチ・ハトゥンの妹。
- ブルガン(Bulghān-i Khurāsānī)…第7ハトゥン。アミール・テスイ[注釈 12]の娘。元ガザン・ハンのハトゥン。
- クトルグシャー(Qutlugh-shāh)…第8ハトゥン。アミール・イリンチン[注釈 13]の娘。
- ソユルガトミシュ(Surghatmīsh)…第9ハトゥン。アミール・フサイン[注釈 14]の娘。
- クトクタイ(Qūtūqtāy)…第10ハトゥン。テムル・クルゲンの娘。
- ドゥンヤー(Dunyā)…第11ハトゥン。スルターン・ナジュム・アッディーン[注釈 15]の娘。
- デスピナ・ハトゥン(Tisbina Khātūn)…第12ハトゥン。アンドロニコス2世パレオロゴスの娘。
子
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ ペルシア語で「騾馬曳き」を意味する
- ↑ フダーバンダ(Ḵodābanda)とはペルシア語で「神の下僕」を意味する[4]
- ↑ フレグの妃であったドグズ・ハトゥンの兄サリジャの娘
- ↑ マズダクは5世紀の末(470年頃)にサーサーン朝のカワード1世治世の人で、1つの宗教を創った。この宗教はマニ教から分かれたもので、二元論の教義の点で若干の相違がある。マズダク教はサーサーン朝時代の宗教で、二元論の点ではマニ教よりさらに徹底し共産主義的平等思想をふくんでいた[11]
- ↑ ジャラールッディーン・ソユルガトミシュ(在位:1282年 - 1292年)の子。
- ↑ アルグン・アカの子。
- ↑ ドゥアの子
- ↑ アミール・スンジャク(Sūnjāq)の息子。[70]
- ↑ オイラト出身のアミールでホラーサーン総督アルグン・アカの息子。[70]
- ↑ オイラト出身のアミール、テンギズ・クルゲン(Tinkīz KūrKān)の息子。[71]
- ↑ ジャライル出身のアミール。[72]
- ↑ アルグン・アカの息子。[73]
- ↑ ナイマン出身のサリチャの息子。[73]
- ↑ ジャライル出身のアクブカの息子で序列第4位のアミール。[74]
- ↑ マールディーンのスルターン。[75]
出典
[編集]- ↑ 佐口 1976.
- 1 2 3 4 大塚 2022, p. 70.
- 1 2 3 4 5 6 7 佐口 1979, p. 165.
- 1 2 3 4 5 佐口 1979, p. 166.
- ↑ 佐口 1976, p. 326.
- ↑ 大塚 2022, p. 71.
- ↑ 佐口 1976, p. 327.
- ↑ 佐口 1976, p. 328.
- ↑ 佐口 1976, p. 329.
- 1 2 佐口 1979, p. 66.
- 1 2 佐口 1979, p. 67.
- 1 2 佐口 1979, p. 68.
- ↑ 佐口 1979, p. 163.
- ↑ 佐口 1979, p. 163-164.
- 1 2 3 4 5 佐口 1979, p. 167.
- 1 2 3 4 5 6 佐口 1979, p. 168.
- ↑ 佐口 1979, p. 169.
- 1 2 大塚 2022, p. 111.
- 1 2 3 4 5 佐口 1979, p. 170.
- 1 2 3 4 佐口 1979, p. 171.
- ↑ 佐口 1979, p. 172.
- 1 2 3 佐口 1979, p. 173.
- ↑ 佐口 1979, p. 174.
- ↑ 佐口 1979, p. 175-176.
- ↑ 佐口 1979, p. 176.
- ↑ 佐口 1979, p. 177.
- ↑ 佐口 1979, p. 178.
- ↑ 佐口 1979, p. 178-179.
- ↑ 佐口 1979, p. 179.
- ↑ 佐口 1979, p. 181.
- ↑ 佐口 1979, p. 181-182.
- ↑ 佐口 1979, p. 183.
- ↑ 佐口 1979, p. 184-194.
- ↑ 佐口 1979, p. 194.
- ↑ 佐口 1979, p. 195.
- ↑ 佐口 1979, p. 196-197.
- ↑ 佐口 1979, p. 197-200.
- ↑ 佐口 1979, p. 201.
- ↑ 佐口 1979, p. 202.
- ↑ 佐口 1979, p. 204.
- ↑ 佐口 1979, p. 205.
- 1 2 佐口 1979, p. 206.
- ↑ 佐口 1979, p. 209-211.
- 1 2 佐口 1979, p. 212.
- 1 2 3 佐口 1979, p. 213.
- ↑ 佐口 1979, p. 213-214.
- ↑ 佐口 1979, p. 214-215.
- 1 2 3 佐口 1979, p. 216.
- ↑ 佐口 1979, p. 217.
- 1 2 3 4 5 6 佐口 1979, p. 218.
- 1 2 3 佐口 1979, p. 219.
- ↑ 佐口 1979, p. 220.
- 1 2 佐口 1979, p. 228.
- ↑ 佐口 1979, p. 229.
- ↑ 佐口 1979, p. 234.
- 1 2 3 4 5 6 佐口 1979, p. 235.
- 1 2 3 佐口 1979, p. 236.
- 1 2 佐口 1979, p. 238.
- ↑ 佐口 1979, p. 239.
- 1 2 佐口 1979, p. 242.
- 1 2 佐口 1979, p. 244.
- 1 2 3 4 5 6 7 佐口 1979, p. 247.
- ↑ 佐口 1979, p. 251.
- ↑ 佐口 1979, p. 253.
- 1 2 3 4 5 佐口 1979, p. 254.
- 1 2 3 佐口 1979, p. 255.
- ↑ 佐口 1979, p. 266-267.
- ↑ 佐口 1979, p. 255-256.
- ↑ 佐口 1979, p. 256.
- 1 2 大塚 2022, p. 42.
- ↑ 大塚 2022, p. 44.
- ↑ 大塚 2022, p. 45.
- 1 2 大塚 2022, p. 46.
- ↑ 大塚 2022, p. 47.
- ↑ 大塚 2022, p. 48.
- ↑ 大塚 2022, p. 41-48.
参考文献
[編集]- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 5巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫298〉、1976年12月。ISBN 4582802982。
- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 6巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫365〉、1979年11月。ISBN 4582803652。
- 大塚修ほか『カーシャーニー オルジェイトゥ史──イランのモンゴル政権イル・ハン国の宮廷年代記』名古屋大学出版会、2022年11月20日。ISBN 978-4-8158-1105-1。
関連項目
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