コンテンツにスキップ

古賀正浩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
古賀 正浩
こが まさひろ
生年月日 1934年(昭和9年)8月5日[1]
出生地 日本の旗 朝鮮半島 平安北道
没年月日 (2002-09-06) 2002年9月6日(68歳没)
死没地 日本の旗 東京都新宿区
国立国際医療センター
出身校 東京大学法学部
前職 国家公務員(農林水産省)
所属政党自由民主党→)
新生党→)
新進党→)
(無所属→)
自由民主党(橋本派
称号 正四位
勲二等旭日重光章
選挙区旧福岡3区→)
福岡6区
当選回数 5回
在任期間 1986年7月6日 - 2002年9月6日
テンプレートを表示

古賀 正浩(こが まさひろ、1934年(昭和9年)8月5日 - 2002年(平成14年)9月6日)は、日本政治家衆議院議員(5期)。

経歴

[編集]

父の任地である朝鮮半島平安北道で生まれる。3歳の時に出征した父が山西省戦死[2]福岡県久留米市で育つ[1]1941年(昭和16年)4月に日吉国民学校(現・久留米市立日吉小学校)に入学した。1947年(昭和22年)に日吉国民学校を卒業[3]し、初等教育の6年間を一貫して国民学校で過ごした世代の1人となった[4]ほか、終戦直後の食糧難が農業や食料行政に関わりたいという決意につながったと回想していた[5]。久留米市立第五中学校(現・久留米市立諏訪中学校)から福岡県立明善高等学校東京大学法学部を卒業し、国家公務員一種試験に合格し1959年(昭和34年)に農林省(後に農林水産省)に入省。食糧庁主計課長、福岡県農政部長、農業協同組合課長を歴任した[1]

1982年(昭和57年)に退官。1983年(昭和58年)の第37回衆議院議員総選挙では自由民主党(自民党)木曜クラブ新人候補として立候補し落選した。1986年第38回衆議院議員総選挙旧福岡3区で初当選した。中選挙区制であった当時、旧福岡3区には同じ古賀姓の議員古賀一成古賀誠がおり、「三古賀」と呼ばれた。1987年(昭和62年)7月に経世会、1992年(平成4年)12月に改革フォーラム21の旗揚げに参加。1991年(平成3年)11月、宮澤内閣渡部恒三通産相の下で政務次官を務めた。

1993年(平成5年)6月、自民党を離党し新生党結成に参加。直後の衆院選で最多得票で当選した。1994年(平成6年)に新進党結党に参加。

1996年(平成8年)10月初の小選挙区比例代表並立制による衆院選では、中選挙区時代のライバルで高校・大学の後輩の古賀一成とのコスタリカ方式が功を奏し小選挙区勝利で当選。1997年(平成9年)12月に新進党が分党する直前に離党し、無所属を経て自民党に復党し経世会を前身とする平成研究会(小渕派)に入会した。1998年(平成10年)8月、衆議院商工委員長に就任。

2000年6月衆院選では、古賀一成を破り当選(古賀一成は比例復活)した。

2001年頃より体調を崩して入退院を繰り返していたが、議員在職中の2002年9月6日、東京都新宿区の国立国際医療センターで死去した[6]68歳没。死没日付をもって正四位勲二等に叙され、旭日重光章を追贈された[7]追悼演説は同年11月5日の衆議院本会議で、久間章生により行われた。

古賀正浩死去に伴う欠員補充となる衆議院福岡県第6区補欠選挙は同年10月27日の統一補選で執行され、民主党所属となっていた古賀一成が同選挙区への鞍替えを目指し立候補(比例九州ブロック選出であったが立候補に伴い自動失職)したが、自民党は荒巻隆三を擁立して古賀一成を下し、議席を確保した。

出典

[編集]
  1. 1 2 3 #古賀奥付
  2. #古賀P.22
  3. #古賀P.199
  4. #古賀P.4
  5. #古賀P.56・174
  6. 第155回 衆議院 本会議 第6号 平成14年11月5日 - 国会会議録検索システム
  7. 『官報』第3458号13頁 平成14年10月2日

著書

[編集]
  • 古賀正浩『久留米が燃えた日』アド・ブレーン・ルーム、1982年8月。 
議会
先代
斉藤斗志二
日本の旗 衆議院商工委員長
1998年 - 1999年
次代
中山成彬